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千手寺(せんじゅうじ)は、岡山県岡山市にある高野山真言宗の寺院。山号は遍光山。院号は蓮華院。本尊は千手観音。 ==歴史== 千手寺(水脈・龍神信仰から千龍寺ともいう)は、千手寺縁起によると天平勝宝4年(752年)に奈良・南都六宗の一つ、法相宗の高僧、報恩大師により創建されたと伝えられる(報恩大師創建の寺院は本尊が必ず千手観音であることが特徴となっている)。 千手寺のある大内田は慶長5年(1600年)から戸川庭瀬藩領であったが遠江(静岡)浜松藩領になり後に徳川江戸幕府の天領に編入されている。 また、京都・大内山仁和寺末となってからは京都本山直末の一等格院(本山直末寺・本寺)として末寺・門徒寺が葬儀等を行う際には派頭導師として執行し、千蔵坊、大蔵坊、三昧寺、五社神社、厳島神社などの多くの坊社を近隣に備え「上寺(かみでら)」とも称されてきた。 江戸時代には徳川江戸幕府直轄地の本寺ゆえか千手寺には、門跡寺院と同じく寺侍が仕え、詰所と茶室が設けられていた(現在の山門は武家屋敷の門を移築したもので一伝には岡山藩家老職の伊木家の門の一つであったという)。 第二次大戦後、高野山真言宗への転派を経て現在に至る。 *千手寺五芒星(信仰の対象・秘仏として原則非公開になっている) かつて吉備の穴海と呼ばれた岡山市内全域と妹尾兼康の十二ヶ郷用水を見渡す小峰にある千手寺の千手観音堂(弘法大師堂)には全国的にも珍しく寺院でありながら陰陽道の五芒星が現・大師堂の厨子の天頂部に祀られている(千手寺五芒星)。五芒星には金箔が貼られており、明けの明星である金星、または北斗七星を示すと考えられる。千手観音堂(大師堂)は建築様式としては禅宗様であり、岡山市法界院から移築したとの伝もある。後戸には鎮守として稲荷(荼枳尼天)が祀られている。 千手寺が望む吉備津神社には温羅(うら)という鬼を吉備津彦命が退治した伝説が有る。 陰陽道の「陰陽」は古くは「うら」と発音し、 陰陽道と結び付くことから千手寺五芒星と温羅伝説の結びつきが考えられる。 千手寺の位置する大内田は日本臨済宗とともに葉上流密教を創始した栄西の生誕地(川入)の近くでもあり関連が窺える。 千手寺を開創したと伝えられる報恩大師は吉備真備、安倍仲麻呂と共に入唐した玄昉の弟子である。俗姓阿刀氏である玄昉の師が同じく阿刀氏の義淵であり、弘法大師空海の母方も阿刀氏と伝えられている。義淵の弟子として行基・道鏡が連なる。 陰陽道はその吉備氏(加茂氏)・安倍氏(安倍晴明)とかかわりのあることから古来、千手寺はその五芒星の加護により岡山市内・河川全体を見渡しながら守護・鎮守してきたと考えられる。 また、陰陽道と千手寺の関わりについては、所在地である大内田の由来の一つが周防国(山口)の戦国大名である大内氏の所領であったことから、領主である大内氏が陰陽道を信仰していたことの名残ではないかとも考えられる。 *織田信長公鎮魂の涅槃図(大軸・信仰の対象として原則非公開になっている) 千手寺涅槃図由来書によると、江戸時代、徳川江戸幕府直轄の天領の本寺である千手寺に、敬仏敬神な檀家一族(織田信貞の血をひくという伝が有る)の手により、織田信長公並びに当家代々の霊が、千手寺本堂にて安らがれることを祈願して奉納された。織田信長公の天下布武はそのまま、犬・猿・雉を従えた鬼退治、桃太郎伝説と結び付く。天領であり、吉備津神社、吉備津彦神社をはじめ、岡山市内全域を見渡す千手寺にて奉納され祀られることで、徳川家・池田家が仕えた、信長公の御霊が岡山を鎮守されるよう祭祀されたと思われる。 *千手寺八十八ヶ所霊場 四国八十八ヶ所霊場(阿波・土佐・伊予・讃岐)を勧請したもので江戸時代の創建と伝えられている。それぞれ妹尾崎・坪井・矢尾・大内田村に対応している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「千手寺 (岡山市)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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